ひめゆり学徒隊とは何か?

ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)で、看護要員として動員された女子学生たちの集団のことです。

正式には「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒・教師が中心でした。

いつ・なぜ動員されたのか?

■ 時代背景

1945年太平洋戦争末期、アメリカ軍が沖縄に上陸し日本本土防衛の最前線が沖縄となりました。

兵力や医療人員が不足する中、10代の女子学生まで戦争に動員されました。

誰が、何歳くらいだったの?

主に15〜19歳の女子学生で、生徒 約222人、教師 約18人の合計約240人です。

多くがまだ学生で、看護の専門教育はほとんど受けていませんでした。

何をさせられたのか?

■ 配属先

沖縄陸軍病院(主に地下壕)

■ 主な任務

・負傷兵の看護
・包帯交換
・食事の世話
・遺体の処理
・弾薬や物資の運搬

医療器具も薬も不足し、壮絶で過酷な環境でした

解散命令と悲劇

■ 1945年6月

戦況が悪化し、日本軍は突然「解散命令」を出します。

しかしこれは、安全な退避先、食料、移動手段など何も与えないままの解散でした。

■ その後に起きたこと

砲撃に巻き込まれる、集団自決に追い込まれる、洞窟内で死亡、飢えや病気で死亡

結果として、生徒・教師合わせて約136人が命を落としました。

なぜ「ひめゆり」という名前なのか?

「ひめゆり」は、学校の校誌名、校章に使われていた花の名前から取られた呼称です。

当時の正式名称ではなく、戦後に広く使われるようになった呼び名です。

ひめゆり学徒隊が象徴するもの

ひめゆり学徒隊は、単なる一部隊ではなく、戦争に動員された未成年、軍国主義教育の現実、沖縄戦の過酷さ、「守るべき存在」が犠牲になった事実を象徴する存在として語られています。

戦後の証言と記憶の継承

生き残った元学徒たちは、自身の体験を証言、戦争の悲惨さを語り継ぐ活動を続けてきました。

■ ひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)

遺品、証言映像、写真・記録を通じて、現在も事実を伝えています。